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207 書の深淵

8/23佐賀新聞社説より

美術展の絵画、陶芸、写真などはじっくり見るが
書はどれも同じように見えて読もうとしても何が書いてあるのか分からない
漢文素読や習字の習慣が少なくなったせいで
最近は作品に釈文が付き、本来の意味を伝える事も理解する事も努力が足りない…
書が大衆から離れていく危機感から
漢字と仮名の交じった『近代詩文書』盛んになり
現代の言葉で誰にでも読めるように書く作品が読めない作品よりも見る者に訴える力は強い…

詩人、彫刻家 高村光太郎
『書の深淵』より

『画は見飽きることもあるが、書はいくら読んでも飽きない』
またいくど繰り返して書を読んでもその度に新しい発見があると感じる。
私が書を分析する限り、書は一種の抽象芸術でありながらその背景にある肉体性が強く、
文字の持つ意味と、純粋型の芸術性とが、複雑に絡み合って、不可分のようにも見え、
また全然相関関係がないようにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。
私の場合、書を読めば誰でもその書かれた作者の意図が判明するような錯覚に捉われがちだが、
それと同時に言葉の持つ意味と言葉の持つ美に心をひかれる。
しかもその動機がただの機械的、図様的なものではなくて、それを書いた人物の精神性に、
ひいてはその言葉の力なり、性質なり、高さ低さ清さ卑しさまでもが明らかにこちらに伝播してくるのである。
一の字ひとつ紙に書かせて、それによって占いをする人があるということをきいているが、
なるほどどれもこれも慣れてきたら或る程度までその人物の真相を見抜くことが出来るかもしれない。
このように書の位置する場が一種特別な、両棲動物的な、不気味なものに読めるのは、
私の一種の独断と偏見だが、書の実用性と芸術性との極度の密着から来るのであろうから、
文字の意味の分からない外国人にとってはその芸術性だけが純粋に鑑賞出来るわけになる。
我々がイランの文字やチベットの文字を見れば、むしろそれはすぐれた文様の一種としか見えない。
外国の芸術家が我々日本人を見て、それから強い抽象芸術的示唆を受け、
自分でも純粋空間的な、書ではない書を書いて書の邪魔になるのと同じように、
その造詣美を創り出すに至った事実は面白いと感じるであろうが、
こういう書の純芸術空間的な世界から見れば書は書の意味を忘れることが出来ない。
たとえば文字の天と書いてあれば、まずスカイと読むが、外国人ならただ四本の線の面白い組み合わせ、
書かれた線と空白との織り成す比例均衡の美だけを見るだろう。
書の制限から開放せられて、自分でも自由自在な抽象美を創り出すことの出来る
芸術境に進むことが無理なく行われるであろう。
その点、我々にとっては相当の無理と抵抗とに悩むことになるであろう…。
by small_room | 2009-08-23 00:00